昭和50年1月22日 朝の御理解
                        中村良一


御理解 第9節
「天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持っておれ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ。」



 大変な御理解だと思います。世界は、わが心にあるぞと。その天地の中にある全てが、わが心にある。その事を、そういう偉大な信心ですから。なるほど、宗旨嫌いなどと言った様な、心の小さいのではないという訳です。
十八日の月次祭の、夜遅うに、宮崎からお参りがございました。一晩泊って、あくる日帰られます。ここで修行しております、田中さんのお母さんのお導きで、電話でお届けがありました。大変、込み入った問題でしたから。それに対して、私、返事をしておりましたけれども、それらにお参りをさせて頂いたら、なお有難いと思いますがという事だったので、あぁ、それに越したことはないよと言っておりましたから。ちょうど、十八日の夜、遅く、ここへ着かれた。話を聞きますと、中山不動という信心をしておられる。それの、宮崎の方の支部の方へ参っておられる。それからこの、福岡の手前にあるんです、本部が。そこは、大変な行をする宗教でしてね。それこそ、火の行、水の行、または、今、お百度の行を踏んでおるとこう言われます。ところが、どうしても、おかげが頂けない。たまたま、田中さんのお母さんの話を聞かせて頂いて。そういう先生が居られるなら、是非、お取次を頂いて、お願をしたいと言うので、見えられた訳です。それでその、おかげを頂くためには、今、私が頂いておる信心を止めなければいけないでしょうかという事でしたよ。それが一番気になるんです。そんなことはないですよと。この神様は、そんなね、まぁそんな小さい神様じゃないよと。また、私が、普通は大体、私自身が小さいですからね、そんなふうには言えないんですけれども。その時だけは、本当にそう思えたんです。そして、それで、おかげ頂くと思ったんです。いや、それはどういう事かと言うと。絶対、お参りをしてきた、おかげになると確信したからです。はぁこらぁやっぱ、合楽の金光様のおかげと、この人が思うから、思うと思ったからです。だから、本当のもんじゃありませんけれどもですね。この神様は、そんな小さい神様ではないですよと言わせて頂きましたら、本人も、大変楽になられたような風でした。という様にです、私共の、信心を、とにかく、金光様の信心が、いよいよ、有難いことが分かれば分かるほど、他の宗旨宗派の事が、まぁいうならば、つまらなく見えたり、低級に見えたりする訳であります。やはり、そこを分からなきゃいけないと思うです。本当に、金光様の信心の素晴らしいという事を。
昨日、私、ある本を読ませて頂きよったら、こういう事が書いてあった。教祖が説かれる所、現代における、自然科学の原理に一致すると同時に、人間幸福の原理にも合致すると。現代の精神科学、または、諸々の主義思想は、その反対の事になり、現代の難儀に繋がるのであるという。ここは、私は、教祖の説かれると書いておるけれども、これは違う。また他の事だったですけれども、私は、教祖金光大神の説かれるところは、この通りだと思ったから、今、こう書いたんです。ですから、それと反対の事はです、現代の、お互いが持っておる様々な難儀に繋がることですから。教祖金光大神の信心を、本当に体得させて貰うたら、もういわば、道理に合った信心、人間の幸福の原理にも合致する教えであるという事なんです。
昨日、ある方が、お参りをして見えられまして、お届けをされます。熱心に信心をされる。子供さん達が信心がない。それで昨日、たまたま、一番上の娘さんと言うても、もう、お孫さんが居られるくらいですから。やらせて頂いて、ここで、帰りに寄って、お届けをして行かれるのですけれども。本当に、あの人ばかりは、こりゃもう、子供も持ちましたが、一番、いわば、私の心の状態の悪い時に出来た子でございますと。それで、本当に、いうならば、私の欠点ばかりを、もって生まれたような人ですが、いわゆる、信心もありませんのに、おかげだけは、本当に、幸せに頂いておりますと。この頃から、特にその人の事を思わせて頂いておりましたら。はぁほんに、自分の心掛けを替えると、こんなにも、娘達の上に、変わったおかげを頂けるだろうかと思うてと言う、お礼のお届けでした。大学の教授をなさっておられます、御主人が。それに、子供さん達の出来も良し、お孫さんも、大変可愛らしゅうお孫さんが出来ておられて、そのお孫さんが言われる事をです、お婆ちゃまに話される訳です。私達は、信心はないけれども、この人は、もうちょっと変わってますよと。お風呂に入っても、ご飯を頂く時でもね。お婆ちゃんがする様な事を、別に遠く離れておられるのですから、見たり聞いたりある訳じゃないけれどもね、様なことをこの子がするんです。例えば、ご飯の時、食卓に座るとね、まず合掌してね、まぁ美味しそうと言うそうです、小さい子が。それだけで、みんながですね、本当に幸せムードが、いわば感じるという訳です。柏手打ってね、食卓に、自分が食べんもの、好かんものがあっても、そう言う。まぁ美味しそうと言うて、合掌して言うて。私は先生、その話を聞かせて頂いて、信心はございませんけれども、おかげを頂いておりますと。
先日から、もう、お年ですから、定年になられる。給料も、それこそ、思いがけなく沢山頂かれたが。賞与も、本当にびっくりするほど沢山頂きました。一二年すると、定年になるそうでございますけども。そん時には、また沢山な退職金が頂けるそうです。信心もありませんのに、本当におかげを頂いてと言うお届けがありました。そして、今までと、かって違った、最近その、子供さんの事に、特に考えたり、願ったりしておられる事がです。もう本当に、神様を目の当たりに、お前が人間心を使わんでも、こういうおかげを頂いておるんだぞと言うて、目の当たりに見せて下さった思いで有難いと、こう言われるんです。私は、ちょうど、その時に、このお書物を読ませて頂いておる中に、頂いて、ここに書かせて頂いておった事が、そこんところを、お話を、お届けをさせて頂くんですがね。こういう事を頂くんですよ。プライドアンドフレッシュと言う事である。プライドアンドフレッシュと。プライドということも大体わかるし、フレッシュということも分かるけども、アンドという事はどういう事だろうかとこう。これはね、明朗清新という事だそうです。せいは清い、新しい、明朗。プライドアンドフレッシュと、これはもう、人間の幸せの心の状態ですね。心がいつも朗らかで、しかも、清らかに新しい。何時もさっぱり、さらっとしとるとこう言うのです。ところが、こういう思い方、考え方の中にはね。本当な物と、本当出ない物の二つがあると書いてあります。例えば、今、そのお話を聞かせて頂いて、本当に、子供の出来も良い。おかげで給料は沢山貰った、賞与も貰うた、退職金も、沢山貰える見通しもついた。しかも孫は、そういう極楽ムードで、信心もないのに、そういう、言うなら、円満のおかげを頂いておると言う。そういう状態の時には、誰だって、プライドアンドフレッシュだと言うことです。例えば、願い事をする、願いが成就する。もうそれこそ、プライドアンドフレッシュであります。ところが、本当のプライドアンドフレッシュというのはです。それと反対の時だと言うのです。願っても、右と願えば左、左と願えば右といった様な時。どうして、自分の家は、こんなに不幸が続くであろうかという時。そういう時にです、この明朗清新、プライドアンドフレッシュの心の状態が頂けるということが、真の信心を頂いて行く者の姿でなからなければならないと言うのです。言うならば、締め上げられれば締め上がられるほど、良い音色の出る鼓のようなもんでかならなきゃいけないというのです。いわば、信心とは、それを願い、それを目指して行くのが信心なのです。
教祖様の説かれるところ、言うならば、学理にも、いわば、一致する。人間の幸福の原理に繋がる所。人間の幸福の原理とは、どういう事であろうか。もちろん、神を信ずる、本当のことが分かるということでしょう。いわゆる、神様のお心が分かるということでしょう。そこにはね、本当に、長年勤めておるけれども、給料はやーすい。そして、賞与もすーくない。さぁ退職金な、貰われるじゃ貰われんじゃ分からん。けれども、やはりおかげで、こういう生活、何十年、主人のおかげで、させて頂いておるのであるから、有難いという心の状態が開ける時に、私は、本当の意味に於いての、プライドアンドフレッシュという事になるのじゃないでしょうか。それには、二つの意味がある。片一方には、今申します、それこそ、結構なおかげを頂いて、自分の思う以上の、いうならば、幸せをしとる人があります。ならば、言うならば、誰でも、そういう気持ちになれるというのです。ですから、それと反対のところをです、私は、時代を通らせて頂く時でも、神様の、いわば、御神恩に感謝し得るところの心の状態が開けてくる。
昨夜の御祈念を、幹三郎が当番でした。その後に、皆さんに、お話を聞いて頂いておりました。最近、僕は、男らしくありたいと願わせて頂けば頂くほど、男らしさの欠けておる自分に気がつく。お道の教師であるという事の自覚が、段々、出来てくれば来るほど、お道の教師としての、いわば、失格を思うと。これは、皆さんの場合でも同じでしょうけれども。真の信心を、いよいよ、願われるなら、願われたらです。必ず、真でない自分が分かってくるという事。本当に、真の信心を願う。本当の良い信心を頂こうと思うと、良い信心ではない、真の信心ではない。信心しておって、こんな事で良かろうはずはないというようなものに、ぶっつかるんだと。もう僕は、そこんところに、最近は悩んでおると。ところが、今日、ふと自分の心の中に、生神金光大神御取次の道ということを感じさせて頂く。僕の様な屑の子でも、僕のように、資格のない教師であっても、生神金光大神のおん取次の働きにすがれるという事に、救いを感じたという話をしておりました。私は、ここから聞きながら、本当に、素晴らしいことだなと思いました。本当に、私共でもです、皆さんから、それこそ、神様のように扱われたり、親先生、親先生と大事にされるが。果たして、これでね、良いのかと。確かに、言葉には、そう表現が出来なかったですけれども。幹三郎の話を聞きながら、なるほど、私も、日々、生神金光大神の御取次の働きによらせて頂いて。いわゆる、最近、言われるところの、いわゆる、無限力につながる事の出来れる、金光大神お取次の働きを言うものをです、感じ、そこに確かに、救いを感じておる訳です。
昨日、ここに、こういうようなものが置いてありました。これは、御本部から送ってきたでもない。これは八波のご紋章の紋が入っとりますもん。だから、おそらく、昨日、光昭が、今、親教会にお参りさせて頂いておりますが、久留米かなんかで出来たんだろうと、久留米の教会で。だから、それを一枚頂いて来たんだろうと、私は分からんけど、思わせて頂いたが。それに、こういうことが書いてあるんです。読んでみます。「祈り、一つ、人を軽う見ない。一つ、人に恩を着せない。一つ、人を利用しない。一つ、人を当てにしない。一つ、人を責めない。私にならせて下さい。」という事が書いてあります。これは、本当に、ゴヒレイの立たないお道の先生が、翻然と、ここに気付かれて、こういうものを作られたのじゃなかろうかと思います。これは、まるきり、信者さんに配るのじゃなくて、お道の教師がね、もうとにかく、先生であろと思うとるから、信者を軽う見る。少しばっかりおかげを頂くと、達がお願をしてやったから、あんたが助かった。それにはあんた、御恩も忘れてからといった様な事を言うのを、恩に着せておる。人を利用しようという事ばっかり考えておる。
先日も、ある教会のご信者さんが参ってきて。そこは、四十年か五十年かの記念祭がある。先生は、一生懸命、信者に言われるけども。信者が、一つも燃え立たない。それで、とうとう、その先生が、癇癪回しなはってからね。と言う、癇癪を回しなさっても、やっぱり人は、ほんなら、記念祭の事を心配しよる風じゃないというのです。これは、もう、まさしく、信者を利用しようとしておるのです。人を当てにしない。人を責めない。責める資格どんがある筈ではない。これは、私自身の事を、いうなら、このみんなを、私は、人を軽う見ないとかは、どうか知りません。自分でも、まぁだ分かりません。けれども、後の、恩に着せないとか、利用しないとか、当てにしないとか、責めないという事は、これは私は、ここんところをおかげ頂いとるから、ここで人が助かるんだと思うんです。だから、もう全然、ゴヒレイの立たないところの先生がね。ここに気付かれたから、こんなものを作られたのじゃなかろうかと思わせて頂いた。もう、これは、ほんなら、お道の先生だけじゃありませんけれどね。これは、お互いの場合だって、こういうものについてくれば、おかげになりますよ。私共は、もう本当に、例えば、どういう教会の、大きな行事があるでも。総代さんお願いしますとか。さぁ幹部の、あんた達、どうでん私は、頼っとるよてんなんてん、思うたこつも、言うたこつもないです。むしろ、私は、あんたどんを頼っとらんとしか言いません、いろんな問題のある時に。私が頼るところは、もう神様一心しかありませんから。信者の方は、いっちょん、向いとりません。信者はもう、助かりさえすれば良いと思うとるです。だから、神様の方だけしか向いていないです。私は、そういう、いうならば、神様が信じられる信心。まだ、本当のもんとも思いませんけれどもです。その宮崎の方に、私が、お取次させて頂いたようにです。この神様は、そんな小さい神様じゃないよと、まぁ言えれるということです。これは、他の方の場合は、どうか分かりませんが、その方の場合だけ、本当にそう思いました。それは、今、言うように、いわば、私の取次によって、その道が開ける、助かると確信が持てたからです。そして、ゆくゆくは、より本当な信心に目覚めて来なさる時期があるだろうと思うたからです。その内容と言うのは、どういう事かと言うと、私の場合は、大体においてです、何時も、プライドアンドフレッシュと言う事です。
昨日、小野先生が、お参りをして見えて、初めて、先生の口から聞かせて頂いたんですけれども。先日、親子ともども、しかん、親子ともども助からんと言う重体患者が入院して来たんです。昨日、聞かせて頂いて、改めて驚きましたんですけれども。本当に、神様の働きとは、素晴らしい事だと思うんです。それも、ここ一月も、それ以上もでしょう。最近、参って来ませんもん。どうした事だろうかと思いよりましたら、昨日、小野先生のお話を聞かせて頂いておったら、たまたま、田主丸ですから、高橋さんが一緒に、散髪に行かれるところに、小野先生が、ちょうど見えた。それで、その、よもやま話の中から、信心の話になってから、高橋さんが、小野先生、あんたがごと、参り信者つまらんばいち言うた。ほんに、俺のは、参り信心じゃあるばってん、いわゆる、やっぱ、もやもやする訳ですね。参り信心でいかんごたるなら、私は止めるち言うてから帰ったげな。ところが、それからというものは、自分が休みの日に限って、重体な患者が入ってくるち言うのです。もう夜も眠られんごたるち言う、その患者が入って来るから。薄うす、それが二三回続いたから、感じてはおった。ところが、たまたま、昨日一昨日、ああして、朝の、ちょうどこの御祈念の時間に、御祈念前の時間に電話がかかってきたんです。もう、矢継ぎ早に電話がかかって参りました。そのたんべんにです、助からんという事を頂くんです。もう私、ここ、九時半でしたか、下がらせて頂いておったら、また電話がかかってきた。やっぱ、小野先生から。そん時には、もう、いよいよ駄目だと、私は思うたです。ここで、お届け帳は、もうお実に、何というですかね、本当に神ながらです。ちょうど、故、何々といった様な、亡くなった方達のお届けが二人続いとったんです。だから、これにまぁ一人、何ごとでも三つ。そこへ、ちょうど、電話がかかってきたんです。だから、これはね、今まで、例えば、小野病院で、患者を死なせた事がないと言うので有名だったんです、小野病院では。ところが、今度は、親子とも駄目だという意味の事を頂いたんです。そして、こう立とうと思うておるところへ、誰か、見知らぬ女の方が、そこへ参ってきておりますから、また、御祈念を済まして待っておったら、何と小野先生の奥さんです。私はあの、名前もしりません。 何という患者さんか。けども、あまりに、病院の方で、手ほどをしておりますから、大変なようでございますから、お願いに出ました。この人は信心がないのです。それこそ、先生の信心を、あなた医者のくせに、神様にどん参ってと、笑われるくらいです。その人がもう、しら真剣な面持ちで、お届けがありました。それから、私は、その、今、お宅の先生から電話のかかったですよと、はぁそうですか。それでね、今度の、まぁ、親子とも助からん。けれどもね、あなたが参って来なさったっで、少し、燭光が賀見えてきた、光が見えてきた様な感じがするんですよ。なぜかと言うと、こんなに、最悪のタイミングであった、今まではずーっと。ところが、あなたがお参りして見えたという事は、私が立っておったらね。私が、ちょうど、座っておらん時間に、座っておる時に、あなたが、参って来なさったという事は、これは、あの、おかげ頂く様な感じもするから、一心におすがりしなさいと言うて帰られたんです。そしたら、またすぐ電話がかかって参りまして、おかげで、親子とも助かった。おかげで生れた。それを話を聞くと、ちょうど、家内が、お参りをしてお届けをしておる時間に生まれた。僕はその、家内がお参りしとることを知らなかったち言うんです。そしてその、患者の枕元に行ったところが、御神米が枕の下にこう敷いてある。だから、あーたのところは、あの、金光様の信心しなさるですかち言うたら、いいえと。さっきから、誰かが持ってきてやりなさった。その誰かが、ほんなr、他のもんが全然入って来とらん、家内だけだから、ほんなら、お前がここに置いたのかと言うて聞かれたら。私が、こうして合楽に参った。参って、お願をした時点に、それも昨日、専門的な言葉で言っておられましたがね。それが、生れるまでには、五つの手数が要るそうです。例えば、出血が始まると、心臓が弱る。だから、今度は、心臓の強うなる。心臓が強うなるすると出血がする。そこを、繰り返さんならんそうです。ところがね、看護婦が間違えちから、一から五までのね、手数をせんならんとに、一から、五のところんとをしたそうです。その時に生まれたち言うのです。一人、近所の産婦人科の先生が、立ち合って見えておられたけれども。こげなこつはある筈がないのに、こげなこつがあったというて、たまがっておられたそうです。だからもう、僕はもう、本当に神様のね、働きを、今度ほど、家内の信心によって分からせられたことはないと。まぁだ、高橋さんあたりのように、死んでもおかげ、生きてもおかげてんなんてんち、僕は分からんけれど、けれども、こうやって、助けて頂いておる、この時点でね。家内がお願に出たという、そこから、このおかげを頂いておる。そのおかげのところだけは、本当におかげと思うと言うて、昨日、お届けがありました。
その先生が言われるようにね、みんなは言われる。生きてもおかげ、死んでもおかげ。例えば、子供の大学受験の時でも、そうでしたけれども。合格すればおかげだけれども、落第すれば、おかげじゃないとしか思えない。今でも、まぁだそうだけれども。これから先生、高橋さんの言われるように、いわゆる、参り信心から、少しはましな信心にならせて頂きたいと思うからと言うて、お届けがありました。そういう信心過程を、お互い、辿らせて頂いてです。それこそ、降ってもおかげ、照ってもおかげと言うところのです。例えば、なぜ、そういうような状態にならなければならないか。そういう状態になった時にです。人間幸福の原理が、そこにあるのです。お願をして、お取次を頂いて、おかげを頂くから、幸福じゃないのです。それこそ、降っても照っても、おかげであるという事実をね、いわば、それは、いろんな自然科学なら自然科学を勉強してからでもです。教祖の言われる事が、それに一致する。人間幸福の、いうならば、原理と、教祖様の教えて下さることは一致する。いうなら、学理の上に於いても、ただ、教えの上に於いてもです、そういう合致点と言うものを、体験によって、積み重ねた時です。私共は、いよいよ、人間の幸福という事が言えれる。
例えば、この五つの、人を軽う見ない。今この読み上げました、こういう事でもです。神様が、信じられればです。例えば、人も軽う見たら馬鹿らしいです。軽う見られる段じゃないです。恩を着せるなんてもってのほかです。人を利用しようなんて、当てにしようなんて、人を責めるなんて、もう絶対、そういう事の出来る筈はないです、神様が分かってきたら。そして、難儀を感ずる、また、ああが良い、こうが良いと思う時にはです。ただ一心に、神様におすがりするより他にないのです。ほんなら、おすがりする自分自身がです。これは、いよいよ、これだけの事を願うからには、本当の信者、信心にならなければいけないと気がつくとです。本当に、金光様のそんじん頂いとって、こんな事で良いだろうかに気がつくのです。そしてそこに、改まるところの一途の心と言うものが燃えてくるです。そして、不完全ながらもです、生神金光大神御取次を頂かせて貰うて、そこに、私共の助かりを分からせて貰う生き方を、繰り返させて頂いておるうちにです。いよいよ、世界は、わが心にありといったような、大きな、いうなら、偉大な信心が身に着いて来るのじゃないでしょうか。自分の、思うようになる事だけが、おかげではなくて、思うようにならない事の方が、かえって、おかげであったといったような体験をですね。頂くためには、思うようにならなかった時に、思うようにならなかった事、その事をです、大事に頂かなければならないか。そこを、一段と信心を進めて行かなければならないかと言う事も分からせて貰う訳ですよね。どうぞ。